オステオパシーの展望 AN OSTEOPATHIC VISION (James S. Jealous, D.O.)
- 1) ここでお話することは、オステオパシー医学やアロパシー(逆症)医学を学ぶ人々のために企画されている。"オステオパシーとは何か?"に関する講義である。そもそも、わざわざそれを学ぶ理由とは?リスナーは、現在行われているようなオステオパシーの診療にいくぶん馴染みがあることが前提となっている。また、かつて意図されたようなオステオパシーの診療には馴染みがないであろうことも前提となっている。かつて意図された診療とは、私に与えられた権限でそのように言っているのではない。単に、オステオパシーの理念を持った教師たちとの私の経験から言うのであり、だが最も重要なのは、実際のオステオパシーの臨床において意図されていた診療ということである。だから、ここで論じるオステオパシーは臨床科学である。それは試験管や器具類を通じて自然を研究・考察する科学ではない。オステオパシーの科学とは、真に熟練した臨床家が個別の患者の内にある疾病と回復の自然法則に目を向け、治療の目指すところが正に患者自身の生きたシステム全体、換言すれば患者それ自体の内に存在することを理解しようと努めることである。だから、ここで少し新しい言葉を考察してみよう。患者という単語は、オステオパシー的にはアロパシーのモデルが意味するものより何か異なったものを意味する。患者は疾病ではなく、精神(psyche)というわけでもなく、彼らの生命を管理する権限を我々に与える何者かでもないからだ。患者とは神の生命の発現である。先入観や明らかに天賦の才などの生涯の経験ばかりでなく、極めて膨大な年月から生じた英知も持っている。
- 2) これに関して論じたのはカール・ユングだったと思う。彼の少しばかり有名な引用である。正確かどうか定かではないが、私の記憶では、我々全ての内に二百万歳の人がいると彼はよく言っていた。換言すれば、それぞれの患者の内には、この途方もなく経験豊かなヒーリング・プロセスが存在する。だからオステオパシー的には、患者を分割できない全体として目を向ける傾向があり、その人全体を尊び、区分したりはしない。概念としては大変面白い。だが生き生きとした認識であり、患者が診療室に入ってきたとき、"ここに入ってきた英知がある。私に教えようとしている、自然や生命についてもっと学ばせようとしている何かがここにいる。"と実際に自分の内面で感じるのだ。
- 3) 患者と我々の関係とは、英知に耳を傾ける深い感覚のひとつであり、必ずしも言葉を介して伝わるものではない。生命をこのように捉えると、それは謙虚な経験となる。そして"私にアドバイスを求めてやって来た、もう一方の人がここにいる"と知るのだ。臨床家が個人の精神上に保持できる権力(power)について気づく、ということでは全くない。自然の中や、神聖なプロセスの中に存在する固有のパワーに関することであり、我々全員の中に存在し、特定の治療パターンの中で現れてくる。うまくいけば、それを知覚できる英知が与えられるであろう。我々が直感的な医学を行っているような発言に聞こえるかも知れない。が、これは直感的な医学ではないことを真実明らかにしておきたい。直感から行われる医学ではなく、思考から行われる医学でもない。それは生まれ持った本能から行われる医学である。数百万歳の本能であり、我々全員の内に存在するとても、とても古い英知である。そしてその本能は、その起源と異なる時間においても存在していたことを知っており、疾病を恐れてはいない。なぜなら、宇宙に存在する全てのものは秩序立っていることを理解しているからだ。
- 4) そのようにして、我々には患者との間に異なる関係が存在するという見解に始めてたどり着く。我々はとても早く、我々が出会う最初の5千から1万人の患者で、"この人の表面的な人格には関わりたくない。患者の社会的洗練性がどんなものであれ、受け入れねばならない。患者の先入観や了見の狭さがどんなものであれ、受け入れねばならない。その人の全ての不均衡を受け入れ、その全体性を探してより深く見なければならない。"と思えるようになる。しかし、だんだん深く見る必要はないと思えるようになる。それは正にそこに存在するし、我々はそれが見えるようになるからだ。そしてそれが患者との関係における唯一主要な基準点となる。真に努力し、心理的灼熱に耐え、更に努力を重ねることで、この百万歳の英知が見えたり、その存在が感じられるようになる。そして、次第にそれとのコミュニケーションが可能になる。
- 5) この件に関して、オステオパシーの文献にとても間接的な記述がある。スティル先生のの著作物を読むと、宇宙に生きている最もよく知られた力についての話が載っている。彼の言う生命とは、多分、聖書の創世記で目にする類の生命のことであろう。そこには"命は神とともにあり、神は命であった"という表現がある。生命自体に発生点があり、存在があり、表現や創造性がある。自然を見ても、全宇宙を見渡しても、それは完全である。そして、この英知・・・この高次元の英知、この生命は非常に尊いものであり、その面前では我々の誰もが子供である。我々は臨床家として訓練し、知識を蓄える。誰もが我々に身を委ねたがる。誰もが我々を優秀であると思ってくれるし、我々もそう思ってもらいたい。我々は正に"私は臨床家である。医師である。"と思うのが好きだ。だが、それは甚だしい欠点である。完全なのは単に患者や我々自身というのではなく、生命それ自体が分割できない神の現われだからである。詩的な話に聞こえるかも知れない。多くの科学者たちはこれを聞いてこう言うだろう:"そんなのは科学ではない。それじゃあ良い医療は行えないよ。"しかし文字通り、我々自身よりもずっと偉大な何かに対して頭を垂れるとすれば、これこそ我々が良い医療を行いえるたった一つの方法である。そして患者の内なるこの全体性・完全性に対して気づく経験を持ち始めたとき、少なくとも私自身や私が知っている多くの人々にとっても、それは謙虚な経験であり、我々自身と神とのより深い関係へと導いてくれるものだ。しかし同時に、それによって我々は学ばなければならない。腰掛け、一生懸命学び、苦労して自然を理解せねばならないのだ。
- 6) そのようにして、実際に医学のテキストを読むのを止め、健全なシステム・運動や自然の基本的パターン・自然界の基本的発現に作用している科学に関するテキストを読み始めるときが来る。このよりレベルの高い全体性・完全性とは、1,999年の今日、我々に提示されているホリスティック医学とは大変異なるものである。その考えは、カークスヴィルに通っていた1965年当時、私の中にはあった。とてもパワフルな発想だった。成長・発達・学習に関する研究や、医師になるために行う全ての事柄はあるのだが、自然が我々に語るよう実際に試みるのだ。自然が我々に語るようにするには、自然とシンクロすれば良い。それに関する話をこれからしてみよう。
- 7) スティル先生は実際その考えについて語っている。彼は生命について語ったのだが、ご承知のように、生命は美しい。実際、とても美しいものであるが、スティル先生を代弁することは私には出来ない。基本的に、彼が述べたことに対する私の解釈を話そうと思う。だが彼は興味深い幾つか他のことも話している。"私は神の御心の子供であることを恥じない。"というのもその内の一つだ。思うに、これはとても深い知覚体験である。いわゆる理念として、とてもパワフルである。知的にも情緒的にもパワフルであり、それに対する非常に情緒的なパワーがある。しかしながら、神の御心の子供・・・患者もまたそうであるのだが・・・であることの現実を悟ったとき・・・宗教的になるでもなく、情緒的になるでもなく真のリアリティとして、実際に経験する何かとしてそれを悟ったとき、スティル先生が86歳のときに語ったことが恐らく詩的な話ではないと理解出来るはずだ。そして、"私は自分の患者を愛する。その顔にも形態にも神が見える。"と86歳の彼は言ったのだ。さあ、ここに一人の男がいる。彼は人々にリージョンに対する考え方を教え、悪いところの見つけ方を教え、その直し方を教えた。そして突然、豹変し、こう言ったのだ:"私は自分の患者を愛する。その顔にも形態にも神が見える。"正に知覚体験や臨床的業務として捉えても、これはとても、とても深遠なことだ。なぜなら、あなたの診療室に入ってきたもの、あなたの前に座っているものは宇宙の一部だからだ。それは、あなたが創造したものではない。その上にあなたの権力が及ぶものではない。恐らくあなたが理解出来るものではない・・・最も優れた臨床的直感をもってしても不十分であろう。あなたは患者を線形時間で捉えようとしているからだ。
- 8) ここで起きていることは、人体のヒーリング・プロセスであり、百万年の経験と神の起源の結果である。我々は、我々の理解を超えた何か素晴らしいものを見ているのであり、私は個人的にそれを信じている。それは、スティル先生の著作物を読んだことに始まるが、もっと重要なのは、私をこの方向へ導いた私の先生たちの後に従おうとしていることに由来しているようだ。スティル先生は恐らく真実を語ったのであり、本当に患者を愛していたのだと思う。患者の中に神から授かったプロセスを見られるように成っていたからだ。彼が愛したものは社交的出来事でもなく、情緒的出来事でもない。"嗚呼、私は自分の患者を愛する。"・・・それは共依存関係でもない。彼が愛したのは、患者の中に見られる美である。そして興味深いことに、それが臨床においてとてもパワフルな役割を演じるのは、末期的な病人を扱っているときなのだ。
- 9) 末期の患者を扱い、このより深い英知を探し始めると、本当に自分の肉体的感覚でその存在を感じることが出来る。自分の手で、この生きた英知を感じられる。治療プロセスにおける我々の立場とは、扱っているのが耳の感染症・splinter・死に行く患者であるに関わらず、ヒーラーのそれとは別のものであることを実感する。我々の立場とは、疾病に打ち勝つ原動力にシンクロするのではなく、ヒーリング・プロセスに徐々にシンンクロしてゆく、ある種の観察者である。我々はヒーリング・プロセスに同化するのだ。死に行く患者にもヒ−リング・プロセスは存在する。だが、それは癌・腎不全・糖尿病の続発症・エイズ・結核・その他死に至る多くの事柄・絶望などに関することではない。疾病のプロセス・患者の精神状態や死に対する受容との我々との係わりに関することでもない。それは実際に何かを感じることに関することなのだ。それが感じられたとき、個人の生涯を超越して、その信じられない美の感覚が生じるのだ。末期の患者を治療することで、とても安楽な死への移行が可能となる。それは実に驚くべき経験である。
- 10) オステオパシーの診療に関して面白いのは、常にその結果に驚かされることである。その内なる全体性・完全性を見ることで患者を知ることが出来るとスティル先生は述べた。しかしまた、臨床家としての我々の技量は、自分の臨床を擁護するために提出する論文の数ではなく、患者個人から得られる臨床結果から判断される。オステオパシーはその効果を自ら現すのだが、無条件にそれを行った場合にのみである。体性機能障害がある患者の幾つかの骨を時々ポキポキ鳴らして背中を直しているからといってオステオパシーを行っていると考えているなら・・・そして一日の残りの時間に処方箋を書いている。もしあなたがアロパシー的な考えを持っているとしたら・・・。アロパシー的に考えることにどんな意味があるというのか?先ず、確かにアロパシー医学は多くの人々に役立って来た。素晴らしいことだ。行ってそれを学び、全てのことを習得出来る場所がある。素晴らしいことだ!しかしオステオパシーはアロパシー医学に取って替わるものである。多くのDOたちはそれが気に入らない。彼らはむしろMDに成りたいからだ。だがあるオステオパスはアロパシーのモデルに従うことに興味がない。アロパシーのモデルとは疾病に逆らうことであり、抵抗にぶつかり、それを変えることである。ご承知のように、主に医学は生化学的である。技術・生化学である。実際に今現在、企業のバイオテクノロジー科学である。医学が企業国家アメリカの支配下にあるからだ。企業国家アメリカと医療との間で今正に起こっていることから見て、我々の癒しの技との関係は衰退傾向にあるように私には思える。だが、オステオパシーは疾病のプロセスに逆らったりはしない。患者の内なる健全をサポートする。患者の内なる健全をサポート出来る唯一の方法は、その全体性・完全性を感じ、理解するかどうかだ。そして、そうなるには長い時間が必要だ。
- 11) 実際にオステオパシーの勉強を始めてから、完全にそのプロセスに気づくようになるまでに15年、20年、25年かかるかも知れない。多くの人々が、近道があると考え、あらゆる特別なことを行っている。だが近道など存在しない。それにはただ長年の献身を必要とするからだ。それは、最初からそれを本当に感じられるようになるまでの間ずっと、患者に対したときにあなたが見ていたものである。疾病のプロセスを見ず、患者の内なる健全に目が向くのは、ある意味自然なことなのだ。その間に診療の原則やテクニックを身に付け、治療を行い、臨床結果を得る。それにより、単に自分自身のオステオパシー・モデルで行っていることよりも深い何かがそこで起こっていることを知る。ずっと深い何かが起こっており、それ覗き込みたくなる。こうして、一個人としてその全体性・完全性を発見するようになる。多くの人々が若い頃、医学生の2年目か3年目の頃、しばしばそれを理解していると考えている。その理念が好きだからだ。そしてその理念を制御していると思っている。ある理念を愛することは素敵なことだが、その理念の中には真実が存在する。そして終にその真実に到達したとき、それは命を得る。その真実が命を得たとき、それはあなたの教師となり、あなたは神の御心の子供となるのだ。そのときあなたは、患者・自然・宇宙との関係において、自らを完全に異なる場所に置いたのだ。
- 12) 1960年代初頭、オステオパシーに興味を持ち始めた頃を思い出す。バーモント大学で哲学と植物学を専攻していた私は、心から森林警備官や植物学者に成りたいと思っていた。スティル先生の著作物を読み始めた私には、先生が"君は私の学校へ来て、人間の中にある自然法則を学びなさい。それらの自然法則とコミュニケーションを取ることで、患者が治るのを手助け出来るだろう。"と言っているのを実感した。そんな風に思えたのだ。お分かりのように、それは真実である。オステオパシーは人の手を使って治療するからだ。もちろん我々の全てを使うのだが、手は治療の媒体である。それは診療室に入ってくる患者に配る処方箋でもなく、メニューでもない。一方、処方薬であろうとマニュアル・メディスンのテクニックであろうとも、偏頭痛の患者は皆そのような治療を受けているし、肺に問題のある患者は皆そのような治療を受けている。オステオパシーはそのようなものではない。
- 13) 私はメイン州のまさしく田舎で育ち、空き時間はずっと森や原野の中で過ごした。そして、原野の中にいる経験、自然を愛する経験、夕焼け・朝焼け・スティルポイント・美しい川・きれいな水・健全を感じる経験を大変数多くして来た。いかに5〜6本の木が10フィートの範囲に共生し、全ての大枝が非常に秩序立って正しく機能しているかを数多く感じて来た。そして、実際に愛が自然を通じて自らを表現し、情緒としてではなく、全ての生あるものの秩序の発現として、その中心にあるのが愛であると数多く感じて来た。
- 14) だから、オステオパシーの学校へ行くことになったとき、素晴らしいと思った。私はオステオパシーが何であるか・・・それは正に自然法則を理解するための人間の試みである・・・を分かっていると思っていた。私は自然を愛していた。大変愛していたので、オステオパシーの学校へ通うのは大きな犠牲を伴った。すでに自然ととても深い関係を結んでいたが、私が成長し、自然とより深い関係を結ぶのをサポートし、助けてくれると思ったのでオステオパシーの学校へ行っただけだった。カークスヴィルに着くと、そこで出会った人々から大変多くのことを学んだのだが、同期生の60%はオステオパシーに興味がなかった。彼らはただ医師に成りたかっただけだ。DOとして完全に認可されることを知っていたので、そこにいるだけだった。私が常にそのことを苦にして来たのはお分かりでしょう。そして、そのことを多くの人々が苦にしていると私は思う。今日でもオステオパシーの学校へ行けば、学生のほとんどはオステオパシー的ではないし、そのことを口に出して憚らない。彼らは"そんなの馬鹿げたことさ。患者を治療するつもりはないよ。心臓内科医に成りたいんだ。"とか"神経科医に成りたいんだ。"とか"これに成りたい。あれに成りたい"と言う。そして手を用いて治療するつもりなど全くなく、ましてや人の中に作用している自然法則を発見しようとする試みなどは言うまでもない。何時も一人で思っていたのだが、オステオパシーの教育機関は学生をサポートしていない。もっと明らかなことは、これらの学生がいかに学校へ入るかだ。これら反オステオパシーである同期生の60%が、いかにオステオパシーの教育に入って来るかだ。どうやって彼らは学校に入って来たのか?学校に出願したとき、彼らは何かを書いたはずだ。書類には、オステオパスに成りたいと書いたはずだ。"MDの学校に入れませんでしたが、本当はMDに成りたいのです。だから、仕方なくオステオパシーを選びました。そして自分自身の権力要求を満たすために、売春婦のようにそれを使うだけです。学校が終わったら、医師として自分の人生を邁進し、オステオパシーを行うよりは主流の医療を行ってステータスと権力を得られるよう努力してみます。"と書いたりすれば、学校は彼らを入学させたりしないから。
- 15) 長い間独りごとを言った挙句、"オステオパシーの学校に出願した際に彼らが書いたものを読んでみたい。そして、教育機関は威厳と品位を持ち、彼らに自身の品位に対する責任を負わすべきだ。彼らが何を書いたにせよ、その道に従うつもりがないなら、教育機関から追放すべきだ。"と私は言った。非情なように聞こえるかも知れないが、業界自体が弱体化し、その遺産を失ってしまっている。明白な嘘つき、明白な偽善者が学校の中をうろつき、オステオパシーに興味がある学生を軽んじるのを許したからだ。我々は本当に、オステオパシーに興味がある学生をサポートしていない。また大学では、多くの教授が"生理学や解剖学で博士号を取ったよ。私はオステオパシーの診療を行っているDOよりも多くのことを知っているけど、オステオパシーに科学的根拠はないよ。"と言いふらしているのを目にする、などなど・・・・。オステオパシーで診療を行っているオステオパシー医は、オステオパシー医学の博士号を持っている。それにより、オステオパシー科学における自分の見解・学識に関して、患者に手を当てたこともなく、臨床医学を行う責任もない生理学者・解剖学者・他の誰よりも権威を認められている。
- 16) だから、オステオパシーを学ぶためには、それを愛さねばならない。時々窓から外に目をやると、木の葉の美しい緑・青い空・大気が見える。そしてこの惑星、宇宙に漂い、回転し、空間的に中心点に向かい、この驚異の銀河で動いている。この上もなく秩序正しく、この上もなく美しい。時々その衝動によって、我々は"育成についてもっと学ぼう。自然についてもっと学ぼう。"と口に出すことがある。それはコンピューターや本に関することではない。それはただ、あなたと患者がいて、一緒に腰掛け、双方が健全と成るべく努め、手助けする瞬間のみに関することなのだ。
- 17) 地方のニューイングランドでの長年にわたる臨床で、もしもオステオパシーがアロパシー医学よりも効果が上がらなかったら、私は決してオステオパシーをしなかっただろう。私がオステオパシーに固執した唯一の理由は、それがとてもよく効いたし、患者を助けたからだ。アロパシー医学よりもすさまじいほど患者を助けたからだ。今ここでは体性機能障害に関して話しているのではない。それは別の話だ。ここで話しているのは、肺炎があったり、治らない胃潰瘍があるような本当に病んだ患者のことである。それらの人々にあらゆる種類の薬を与えたが、結局オステオパシーの方がより強力であることが分かった。
- 18) スティル先生が言った別のことで、私の心に残っているのは、"オステオパシーは天の偉大さと同じくらいパワフルである。"というものだ。それは驚異の科学であるが、師を見つけ、それを学ぶ健全な環境を見つけ、それを愛さねばならない。生命自身に内在するこの自然の追及を愛せなければ、恐らくオステオパシーはあなたものとはならないだろう。"オステオパシーとは何か?"と問われれば、それは自然界とのとても親密な関係に関するものである。そう答えると世間では当然、国立公園や筏での川下りを思い浮かべるが、現在の我々が言う自然とは全く異なるものである。我々は自然について語り、自然と調和していたソロー、スティル、一部の偉大な作家たち、一部の偉大な人々を見ている。自然とは広大なものであり、秩序正しく、美しい。それによって人体の中で体液は動き、目は光に対して反応し、考えることが可能になり、我々の両手は動く。自然とは発現である。個人の意識の中に現れる宇宙であり、秩序・精密さ・個々の生き物固有の気づきを持つ。愛を呼び起こすものであり、事実、神を知る上でのよりどころである。神自身は癒しの神秘の中に永遠に隠されたままではあるが・・・。
- 19) オステオパシーが何であるかを知りたければ、それは一生涯の旅だと思う。生き様であり、存在の仕方である。有名になったり、金を儲けたり、聴診器を首からぶら下げ白衣で部屋に入って来たりするよりも、ずっと高次なものの追求である。2分や8分間、患者と共に時間を費やす以上のもの、直感的であること以上のものである。オステオパシーには命があるという可能性を受け入れることは、1999年の人間には途方もない課題である。
- 20) 最も大事なことは、オステオパシーには命があり、本当に生きている。しかしそれを行う人の心の中に生きているのであり、もっと重要なことは、我々全ての中に、そして患者全ての中に存在する二百万歳の英知の中に生きている。スティル先生が形にする前からオステオパシーは存在し、生きていたのだ。彼がなぜオステオパシーという言葉を選んだのかは分からない。それにはきっと多くの理由があるのだろう。骨と病理に関する話は出来るが、多かれ少なかれ、骨は胚盤に現れる最初のシステムである。胚盤を見てみると、最初に出来るのは正中線である。もちろん正中線は脊索の細胞構造の発達や、電気的機能ばかりでなく生化学機能・体性機能など全機能の基準点となる。次に電磁場・生化学・カリウムイオン濃度・組織の位置が空間的に規則正しく・ダイナミックに成ってゆく。これらは全てこの中心点に関連している。そして、中心点であるこの正中線が筋骨格システムの中核に隠されている。これがオステオパシーという言葉の奥行きの一部を表しているかも知れないが、分からない。スティル先生とこの件に関して話をしてみたいものだが、今は我々自身の品位に関する責任で立ち往生している。我々は、この瞬間をオステオパシーの教師として生きており、全ての答えは持っていないが、確かにそれらを説明することはできる、と謙遜しながら認識している。骨を詳しく見てみると、骨髄に達する。大変多くの事に達する。体の位置を知りたい場合、骨は重要な参照点となる。長年オステオパシーを学んでいるが、私だったらオステオパシーとは呼ばないだろう。しかしどう呼んだら良いのかも分からないので、その言葉やそれが意味することにそう関心がない。むしろ、オステオパシー医学の知覚体験の奥に潜む真実を発見してみたい。
- 21) そして"そもそも、わざわざオステパシーを学ぶ理由は何か"という疑問に突き当たる。私が作っているこのオーディオ・テキストやテープは、特にプライマリー・レスピレーション(一次呼吸)を理解する支援となるよう企画されている。それは身体内外での生命の不随意な発現であり、とてつもない治療的効力を持っている。私が人に与えられるオステオパシーを学ぶ唯一の理由とは、私が今まで見たどんなものより全人的生命に著しい治療パワーを持つことだ。そして単に、私にとって自分の手の技術・才能・生命に対する知覚が臨床的に功を奏したからだ。しかしながら、面白いことに年を重ねるにつれ、結局私は本当に難しい患者を診るようになった。彼らは本に記載されているような専門家に診てもらったり、多くの場合、代替医療の施術者やマニュアル・メディスンを行うオステオパシー医に診てもらった経験があった。難しい患者たちであったが、80〜85%の優れた臨床反応を得た。とても難しい患者たちであったし、とても悲惨な状況だった。だから、人にオステオパシーの学習を勧める第一の理由は、臨床上効果的であるからだ。第二に、あなたたちがそれだけを望んでいるかどうか分からないが、臨床上効果的であるからだ。あなたたちがオステオパシーを学びたい理由は、他に有るかも知れない。オステオパシーはとても深遠な科学であり、大変な時間を要する。自然を学び、全てを追求する途方もない科学であるということだ。オステオパシーの習得には自分の全てを費やす必要がある。本当に自然を愛す必要がある。世界中の仰々しい科学実験室の中よりも、木々を渡る風の中に多くの英知が働いているというようなシンプルな感覚が常に必要となるだろう。
- 22) 科学を学ぶ場合、それは常に移り変わる。科学は自らを疑い、自らを餌食にする。10年毎に、何が正しいのかが変わる。40歳になった科学者は誰もが多かれ少なかれ、他の世代よりも自分たちの世代の方が利口であると考えるようになる。もちろん比喩的な話であるが・・・。今日の科学に本当に欠けているのは創造性である。スティル先生、サザーランド先生、アインシュタイン、Hanumann、カール・ユングのような多くの人々は創造的であった。彼らは既知のものの向こう側を見ていた。知的概念の凝固よりもずっと洞察力のある自身の一部で見ていた。神の無い科学は空っぽであり、どのみち進展しないだろうとアインシュタインは述べている。
- 23) オステオパシーとは何かを考える必要があると思う。誰もがそれに答えられるとは思わないが、それを経験するのは可能であると思う。オステオパシーを行っている臨床医が一緒ならば、その診療室でオステオパシーを経験出来る。もう一つは、なぜわざわざオステオパシーを学ぶのかである。私にとっては、地方のニュー・イングランドで医療を行えるのは心から名誉であると思っていたし、オステオパシーはよく効いたからだ。余暇はずっと自然の中で過ごしていたので、自然の発現としてのプライマリー・レスピレーションを学ぶように求められたとき、死ぬほどワクワクしながら患者の内なる自然を探し、共有した。ある意味、外側から自然を経験したのと同じようなものだった。今日では、自然を経験するのさえ困難である。人々はテレビを見るのに忙しいということだ。また、今日あなた方が受けている教育システムでは、オステオパシーのようなものを学ぶということに関して役に立っていない。平均的な人の注意持続時間は、聞いたところによれば約14〜15秒であるからだ。それはテレビ・コンピューター・自動車・ファーストフード・・・全てがそんなふうなのだ・・・と共に暮らしていることに由来する。
- 24) プライマリー・レスピレーションの観察に最低限必要なことは、数分間じっとしていられることである。心を一つに集中しないで(unfocus)、じっとしていられなければならない。そのサイクルが毎分2〜3回のようなものもあるからだ。それは、数分間にインプレッションが書き込まれる白紙のようなものである。それより早いものもあるが、それにシンクロ出来るまで、そしてその瞬間に自然が如何に自らを発現するかが正確に感じられるまで、多くの場合、数分間観察する必要がある。だけど人にはその注意持続時間がない。自然を観察し始めようとすると、起こることといえば心が14秒毎にカチッと音を出し、何かを喋りたがる。そのように訓練されて来たからだ。だから、数百万歳の英知を見つけようとしたり、我々の中にある知性を見つけようと努力することは個人の責務となる。この知性は自分の現実を記憶してきたものとは異なる。我々は知性を見つけ、その知性は真実、美を認識する。その知性とは、実際学校で習得したものよりずっと知的であり、年を経ており、柔軟で、順応性があり、統合したものである。
- 25) オステオパシーの学習はチャレンジである。タフで勇気と献身を必要とし、万人向きとは言えない。間違いなく万人向きではない。オステオパシーを行っている我々でさえ腰掛け、考えねばならない類のものである。私が30代半ばの頃、実際にオステオパシーの診療を辞めようと考えた。相談出来るオステオパスが自分の周囲に僅かしか、そして私に関する限り同世代には全く一人もいなかったからだ。現在56歳だが、伝統的なオステオパシーの診療を行っている同世代のオステオパスはそう多くない。しかし伝統的なオステオパシーの診療に身を捧げている数人のオステオパスにヨーロッパや世界の外の場所で会って、刺激を受けた。共に学ぶ家族、オステオパシー家族がいるように感じられた。後に我々は、ここ合衆国で1978〜1982年ぐらいにちょっとした火を点し、研究会がスタートした。過去20年以上、それは本当にルネッサンスであり続けた。本当のオステオパシー・ルネッサンスであり、今日では私がオステオパシーを学び始めた頃よりも、心から興味を持ち、学びたい人々のためにより多くの教師たちが得られるようになった。1970年代、メイン州にいた頃、頭蓋領域のオステオパシーを行っている医師は、全米で他に一人しか居なかった。
- 26) そのように多くの事が変化したが、この業界全体あるいは教育機関という点から見れば、僅かしか変わっていない。オステオパシーの本当に残念な状況の一つは、オステオパシーの機関でその教育が受けられないことだと思う。彼らが私の言っていることに異議を唱えるのは分かっている。異議を唱える権利があることも分かっている。彼らは、オステオパシー医学が現代科学であり、オステオパシーと共にアロパシー科学も含まれると考えているからだ。しかし、オステオパシーは、教育カリキュラムの3%以下まで最小限にされ、学生がインターンに行けば、オステオパシーを行うことは許可されない。それをさせて欲しいと求めても、許可されない。それを許可されても、結局学生がドクターに教える羽目になる。ドクター自身がオステオパシーのやり方を知らないからだ。MDの機関ではなく、オステオパシーの機関でオステオパシーを使って患者を治療する研修プログラムが、(もしOMM専門研修プログラムで無い限り)存在しないのだ。実際にカリキュラムの90%が主要なオステオパシーで、10%がアロパシーであるような教育が存在しないのだ。
- 27) だから、オステオパシーの習得を望む学生は前途多難である。生きた動力学と協力するという一つのことを除いては。それは彼らをサポートし、愛し、育成し、成長させ、その人生を美しいものとしてくれる。そうすることで、臨床経験2〜3年で多くの医師がブチ当たる虚しさの感覚を受けずに済むだろう。医師たちはたいていマンネリになるのだ。権力を得、世間に認められ、経済的に保障されると、診療に対する味わいと興味を失う。診療室に入って来て話すことと言えば、金や株やたくさんの下らない他のことである。彼らには、人として、臨床家としての自身の成長・進歩を促す炎、自分の患者と真に意味のある深い会話をしようとする炎がないのだ。それは医師の信念体系や教義ではなく、その瞬間に存在する清澄さや品位に関する問題である。品位の問題に話しを戻せば、我々の教育システムにおいて、大学に入学するほとんどの学生は品位を失っている。つまり、彼らは書類にオステオパスに成りたいとか、オステオパシーに関する素晴らしいことを書いたりするが、それに最後まで従うつもりがない。それは品位に対する我々の文化の問題、品格に対する我々の業界の問題なのであろう。恐らくそうである。
- 28) しかしながら、オステオパシーは並外れた科学である。私なら、その靴が本当にフィットしているかどうか分かるまで、それを長く学ぶよう薦めるだろう。本を読んだり、授業に幾つか出たからって理解出来るとは思えない。我々が探求し、試みるようなオステオパシーの臨床原理を履修する必要があると思う。それは臨床で効果があり、自然との関係を深めてくれ、神との橋渡しともなるものだ。そして、読むことが出来るどんなものよりずっと重要である。
- 29) オステオパシーとは以上のようなものである。深遠な科学であり、生涯に渡る旅である。オステオパシーを行うのに必要な、背景となる技能が幾つかある。オステオパシーの診療が出来るようになるのに、前もって必要な類のことがある。このオーディオ・テキストが進むにつれ、それに関する話が出てくるだろう。このオーディオ・テキストは、臨床家、すなわち診療を行っている人のために企画されている。日々の患者ケアに携わっていない人、心からそれを追求するための教育的背景を持たない人、学校に通って解剖学・発生学・生理学の学習にその身を捧げるつもりの無い人、病んだ人々のケアという責務に対して情熱的・学究的にその身を捧げるつもりの無い人のために企画されたものではない。だから、背景となる技能を必要とするのだが、それに関しては他のテープで話そう。主に知覚に関すること、感じることと触診との違いから始めるだろう。患者を概念モデルとして見ることから、患者の中に既に存在する運動への関与へと如何に移行するか?如何にそれを通して働きかけるか?
- 30) 素晴らしい本は何冊かあるが、何を読んだら良いのかについて話そう。スティル先生が書いた『伸びる影(The Lengthening Shadow)』、『オステオパシー医学の原理と実践(Principles and Practice of Osteopathic Medicine)』をまだ読んでなければ、手に入れて読み、彼が何を考えていたのか理解すべきだろう。歴史的に重要であると思うからだが、オステオパシーが歴史の模倣を目的にしているものではないことを忘れてはならない。自然が神の知性の効力として自らを表現したとき、その瞬間に生き、自然の発現にシンクロするのが目的である。ここで話していることは詩的な話ではないことを忘れないように。詩ではないのだ。
- 31) 私個人にとって最も困難なことは恐れであった。オステオパシー道の一歩一歩に恐れがあったと思う。職業的失敗、金銭的失敗に対する恐れがあった。ずっと恐れがあったのだが、自分では恐れてないと思っていた。ずっと勇敢で前向きに進んでいると思っていたので、他人が恐れに関して話すのを聞くと、"私にそんな問題はない"と言ったものだった。しかし、自分の中で向き合わねばならない何かがある。恐らくそこに居ないのではないか、必要なときにこの百万歳の英知がそこに居てくれないのではないかという感覚がある。そこに居てくれているのは保障出来るが、自分でそれを経験したときのみ真実は確かなものとなるようだ。
- 32) オステオパシー医学に関して大家(たいか)という者はいない。自分もそうだ。オステオパシー医学に、生きている大家はいない。オステオパシーを愛す多くのオステオパスがいるが、願わくば、そのほとんどがオステオパシーの大家でないことを分かってくれていれば良いのだが。オステオパシーに関して唯一の大家とは、それを生み出したものである。人はオステオパシーの大家であるほど優秀ではないのだ。オステオパシーは自然の豊かさによって結合した科学であり、我々の誰もが未だその限界を知らない。だから、決して突き止めることが出来ないと分かっている科学を学び、動かしているのだ。決してそのエキスパートでないことは分かっているが、オステオパシー医と成ることで、自分にとっても多くの患者にとっても有意義な方法で人生を共有出来るのだ。有意義なものとすること以上に人生、特に医療行為にとって美しいものはない。感情的に満足であるということではなく、有意義であることが大事なのである。何かが、それぞれの瞬間に万華鏡のように複雑なレンズを通じて自らを現せるように、その発現を増大させ、調和の動きを妨げないように秩序正しく自然とシンクロしたとき、その何かが重要な意味を持つようになる。その何かとはスティル先生が語っていた生命全体のことなのだが、この神である生命がミステリアスな方法で自らを現すのだ。しかし、それはそこに存在するので、人は医師であろうと患者であろうと自分の知性・直感・信念体系の予想を超えて健全の感覚を知るのだ。
- 33) オステオパシーとは何か、わざわざそれを学ぶ理由とは、に関する手始めとして以上のことを皆さんに託しておこう。話すべきことは他にもあるのだが、これらのテープでは、教えるというより真実を話そうと決めたのだ。ただ腰掛け、これらテープの概略を述べ、目標を持ち、その目標を通じて皆さんを連れて行けば良いと思っていた。しかし現在、これらのテープでは、ただ腰掛け、自分が経験した通りにオステオパシーに関する真実を語ろうと思っている。皆さんはリスナーとして、以下のことを理解する必要がある。私は自分を大家であると思っていない。大家に成りたいとも思っていない。大家と思って私に従って欲しくない。私は皆さんが、自分自身の光・自分自身の英知によって従うべき自身の道を見つけるお手伝いがしたいのだ。我々が目にする変化や、自ら発現する自然法則について検討したり、興奮したりする喜びを分かち合おうではないか。共に旅をするが、対等の関係での旅だ。これは、学生の才能が正しく評価されないままの教育課程ではない。だから、教え合おう。聴いている皆さんは我々の教師であり、我々は皆さんの教師である。全体として、皆で共に助け合おう。情緒的なことではないし、キャンプへ行くようなことでもない。カルト(狂信的集団)みたいに人は言うかも知れない。カルトではなく、ただ勇気を持って掘り下げ、学ぼうとする人間が集まるということである。我々はオステオパシーを学ぶ者であり、私にとってそれは自分の人生がその周りを回る支点(fulcrum)のようなものである。
- 34) 今回はここで止めておこう。次回はこの続きから進み、オステオパシーを経験するに当たり、今までお話しして来たことを感じ始めるのに必要な、背景となる技能の幾つかを見ることから始めよう。その技能を身に付ければ、それを発達させ、客観的にその方式を検討し、オステオパシーを学びたいかどうか決めることが出来る。必要な投資というものがあり、もしも臨床家であるなら、それを患者に支払い、ヒーリングの入り口を超えるための大きな機会を与えてくれる診療の原則について研究すべきであると思う。
- (翻訳 堤一郎)(転載禁止。この文章の著作権はジムジェラスD.O.に属します)
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